山と温泉の旅 喜作ストーリー
 

 小林喜作は、北アルプス黎明期と呼ばれる時期に生きた名猟師だった。
 槍ヶ岳へ至るコースの中でも最も人気のある表銀座縦走ルートの根幹部分は、この喜作が体ひとつで切り開いたものだ。喜作新道を開通させた翌年には、槍ヶ岳の直下に突貫工事で殺生小屋を築いている。時あたかも北アルプス登山ブームの広がりはじめた時期。従来3、4日かかっていた槍ヶ岳登山が1日に短縮され、しかも日本離れした北アルプス深奥部の絶景を望める喜作新道によって、喜作の殺生小屋は成功を保証されたようなものだった。しかし、その翌年に他殺とも噂される雪崩事故によって命を落としている。現代の登山者の大恩人とも言える喜作だが、波乱に満ちたその人生に興味は尽きない。

 焼岳が噴火して大正池ができたのが大正4年。喜作が活躍したのはこのころだった。当時の猟師というものは、耕すべき田畑もなく、営林署に管理されて木を取ることもままならずに、最低の貧乏暮らしを強いられた人々がやむなく就く職業だったという。水呑百姓のさらに下を行く最底辺の人々だった。そうでもなければ、有数の豪雪地帯のなか断崖絶壁を命がけで獲物を追うことなどできなかったのだろう。貧乏生活からなんとか這い上がろうとしても、当時の貧乏人はどうしようもないようにできていたのだという。田舎の職人の日当がおよそ50銭の時代。カモシカの毛皮なら7,8円、熊の毛皮なら10円から15円で売れたらしいが、今のように車に乗って売りにいくこともできず、村の旦那に言い値で買い取ってもらうしかなかった。当時、天下の名猟師と言われた嘉門次でさえ、ひと冬かけて集めたカモシカの毛皮12枚を12円で買ってくれと上高地の五千尺旅館に持ち込んだそうだ。あまりに気の毒なので10円を上乗せして引き取ったというが、そんな時代だった。

 しかし猟師たちは経済感覚も薄く、僅かな金が入ると酒を飲んでしまい、ますます窮乏生活に輪をかけていたのであった。喜作はそこがほかの者と違っていた。まもなく喜作は仲間の毛皮を2倍の相場で引き取るようになっていた。人より多くの獲物を捕らえることができた喜作には、毛皮のストックを持つ余裕が生まれたのだ。さらにどういうツテからか、当時禁鳥だった雷鳥を剥製にして、学校教材として特別許可を持つ人物に卸してぼろ儲けしていたりした。肉は喜作の父が売り歩いて金にした。酒も飲まず、こうしてかせいだ金で田畑も手に入れ、急速に金回りが良くなっていく喜作に、村人からはいわれの無い反発から、ケチでがめつい守銭奴というレッテルを貼られるようになっていく。

 喜作の狩は壮絶だった。岩壁に追い詰めたカモシカを銃で仕留めると、カモシカは絶壁をまっさかさまに落ちていく。それを追って犬たちも転落するように谷を駆け下りていく。うかうかしていると、犬たちはたちまち獲物を食い荒らしてしまう。こんなとき、他の猟師たちがわかんじきでこけつまろびつ走っていくのを尻目に、喜作は鉄砲を胸に抱いて雪の中をまりのようにころげおちて行ったという。
 熊撃ちも豪快だった。熊の口先に銃口をつけるような撃ち方で、はずしたら逆襲されて命を落とすようなやりかただったそうだ。ほとんどの熊は一発で仕留められていた。喜作が持っていたのは、村田単銃十二番、村田改造銃三十番、それに喜作手作りの銃など。これらは当時すでに旧式になっていたそうで、至近距離で撃たざるをえなかった事情もあったのだそうだ。

 当時の喜作の写真を見ると武蔵丸のような風貌で、見るからに頑丈そうな巨体である。バットで叩いてもびくともしそうにない。しかも頑丈なだけでなく身体能力も抜群だったらしい。北穂で遭難があって、救助にかけつけた全員が暴風雨で身動きが取れなくなっていたとき、喜作は猿のようにするすると岩をつたって遭難者にたどりつき、さらにカモシカのように岩をぴょんぴょんと跳んであっというまに脱出路を見つけてしまったという。唖然と見ていたみんなは口々に「あれは人間じゃない、天狗だ」と言った。
 槍ヶ岳周辺に縦横に走るけもの道は、みな尾根に続いているという。追われたけものたちは、東鎌尾根に逃げ込みさえすれば見通しがきき敵の接近をいち早く知ることができる。しかも人間は登ってこられない。最も安全な場所のはずだった。しかし喜作は登れないはずの東鎌尾根を平気で歩き、次々と獲物を仕留めていった。

 そして登山ブームが始まる。
 登山客に請われて山案内をする猟師が増えてきたころ、すでに一財を築いていた喜作はガイドなど金にならんと断っていたそうだが、どうしてもと頼まれると普通の何倍かの料金を取った。それでも難所を行くには喜作でなければならないと依頼がまいこんだ。そんななかで喜作は槍ヶ岳直下に山小屋を作り、そこへの道を切り開くことを思いつく。

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 当時槍ヶ岳に登ろうとすれば、中房温泉に1泊した後、燕小屋か大天井小屋に1泊、さらに東天井から横通岳を経て常念小屋に1泊、そこから一ノ俣谷をいったん槍沢まで下り、3日から4日かけて槍ヶ岳にたどり着いたものだった。そこで喜作は大天井岳から西岳を経て槍ヶ岳の東鎌尾根に道を作ることにしたのだった。これが開通すれば一日で槍ヶ岳へ行くことができて、そこに小屋を作れば登山者を洗いざらい獲得できるはずだった。

 そして喜作の道作りが始まる。何のことはない。喜作がいつも猟で歩き回っていたけもの道を切り開いたのだ。しかしそれはただ事ではなかった。
 道作りといっても這松を切り開いて石を寄せる程度だったが、今のような工具があるわけでもなく、複雑にからみあったしぶとい這松をナタで一本づつ切り取っていくのは大変な作業だっただろう。じゃまな岩があれば石ノミで割っていった。人手だけで7kmもの道を切り開いたのだった。それも燕山荘の赤沼千尋が、よもやあんなところを人間が通れるとは夢にも思わなかったと言った、3000mの絶壁の上である。喜作が集めた人夫たちは、あまりのきつさに2、3日で逃げ帰るものが続出したという。
 この道作りには3、4年を費やしたらしい。結局最初から最後までやりとげたのは喜作と息子の一男の二人だけだった。

 喜作新道が開通すると、次は殺生小屋の突貫工事が始まった。すでに槍沢小屋や常念小屋は急激に増え始めた登山客で繁盛していた。

大正4年   焼岳が噴火し大正池が誕生
大正5年   宮様の槍ヶ岳登山に伴い、上高地~槍ヶ岳、槍沢~中房温泉ルートが開通
大正6年   槍沢小屋完成
大正8年   常念小屋完成
大正9年秋 喜作新道開通
大正10年  燕小屋完成
大正10年秋 殺生小屋完成 大槍小屋完成
大正11年  殺生小屋開業

 喜作新道が開通したいま、槍ヶ岳直下に殺生小屋が完成すれば、常念小屋や槍沢小屋の客は根こそぎ殺生小屋に流れるのは確実だった。しかし、ほとんど同じ場所に大槍小屋の建設が急ピッチで進められていた。先を越されてしまえば、苦労して作り上げた喜作新道の恩恵は大槍小屋に奪われてしまう。この漁夫の利をかっさらうような大槍小屋建築については、かなりトラブルになったらしい。
 この小屋の工事も大変だった。なにしろ周囲に木はたくさんあっても営林署が使うことを許可しないので、ふもとから人手でかつぎあげなければならない。人夫の争奪戦になり、日当はうなぎのぼりだった。喜作はかき集めた人夫の先頭に立って檄を飛ばしながら自ら荷物をかつぎあげた。大工は基礎工事だけやると帰ってしまったので、柱も屋根もほとんど喜作が自分で作り上げたという。
 まだ屋根を貼る前、雨のなかで一日の作業が終わり夕食を食べ終わると、喜作はトタンを取りに行くと言って立ち上がり、みんなが危険だからと止めるのを振り切って中房温泉まで下り、翌朝にはトタン60kgを背負って登ってきたそうだ。現在のコースタイムでおよそ24時間。いくらなんでもとは思うが、そんな武勇伝が残るほど喜作は必死に仕事をしていたのだろう。

 そして秋が訪れ、目標とした大正10年の開業にはこぎつけられなかった。隣の大槍小屋も同様だった。そんなころ、ちまたではスイスからの外電で日本人によるアイガー東山稜初登頂のニュースが流れ、大反響を呼んでいた。いよいよ本格的な登山ブームの到来だった。
 年内完成にこぎつけられなかった喜作は、小屋の周囲になだれや風雪を避ける立派な石垣を作り始めた。これもきつい仕事だった。喜作と一男、それに手伝いの計5人がかりで来る日も来る日も石を積み続けた。腰が痛くて泣きながら作業したというこの立派な石垣は、殺生小屋の名物となった。

 いよいよ翌年、喜作の殺生小屋は開業にこぎつけた。一方のライバル大槍小屋はといえば、開業に向け登ってみたら小屋は跡形もなくなっていた。雪崩にやられたのである。この小屋は再建したのち不運にも再び雪崩にながされている。もっと安全な場所を求めて、のちに東鎌尾根の上と槍ヶ岳の肩に小屋を建てることになった。今の大槍ヒュッテと槍ヶ岳山荘である。
 とにかく自滅したライバルを尻目に、喜作の殺生小屋は開業した。下界では不況が影をおとし失業者があふれ始めた時代。しかし殺生小屋は大盛況だった。来るのは慶応、学習院のお坊ちゃん学生。雑魚寝で一泊2円50銭を取って笑いが止まらない状態だった。

 大成功の一年目を終えた秋、殺生小屋を閉めて猟師に戻った喜作はこの年限りで猟師を辞めると口にしていたそうだ。そして翌年3月。猟の途中で雪崩に襲われた喜作は命を落とし、あれほど苦労して作り上げた殺生小屋に再び帰ることはなかった。この雪崩事故については、喜作に恨みを抱いた猟師たちの他殺ではないかという噂がまことしやかに流れたが、真相はついに明らかにはならなかったという。
 喜作の死後、殺生小屋はなぜか別人の手にわたり、残された喜作の家族には何も残らなかった。喜作に出資した人物が喜作は単なる人夫として雇っただけだと言い始めたのだった。これも真相は闇のなかである。

 こうして喜作の野望は潰えたのだった。まさに裸一貫から体ひとつで成功を勝ち取っていった喜作。自分の能力を最大限に発揮し、チャンスを確実に捉えて先を読む力も的確だった。現代であれば立派な実業家として尊敬されただろう。北アルプス黎明期には、こんな男がたくさんいた。


出展 「喜作新道 - ある北アルプス哀史」 山本茂美著

 この文章は、喜作の生き様を要約してまとめたものである。いくつかの資料をあたったつもりだったが、ほとんどすべてが山本茂美の喜作新道からの引用となった。それだけ良く調べ上げた小説ということだろう。読み物としても大変面白い。

 
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